2013年12月9日月曜日

一筋縄

最近人生を考える
これも年のせいだろうか?
昨日会社に愛犬を連れて昔の戦友が遊びに来た。
彼女と二人で過ぎ去った出来事や事実だけを分析してみた。

本当の意味での自分の幸福感

ソクラテスさんは「生きること」以上に「よく生きること」を重視し、
正しく知ることが重要であると説いている。

生きていくには様々な事があり
色々なターニングポイントで
その時の「事情」とやらに
どう始末をつけていくか個々違うけれど
たとえどんなことがあっても
気持ちのけじめだけは付けて
笑って握っている手を開く覚悟だけは
しておきたいと思うようになったのは
私だけではないようだ。

いつも追い詰められながら仕事をしていた頃
自分らしくなんぞ程遠く
その時の熱に動かされていた。

求められる事が多すぎると
何とか応えたいと奔走するけれど
明らかにオーバーワークだと体も心も
パンクするのに人間そう時間はかからない
人間は機械じゃないから地味に壊れて行く。
またやっていることが自分の資質にあうかどうかもとても大切

ソクラテスさんの言うように何でも正しく知ることは重要で
人それぞれ伝え方の違いで
同じことを伝えても
Aと取る人もいれば
Bと取る人もいる。
相手が勘違いしている時は
正しく伝わるまで確認することは誠実に物事を進めるにあたり
特に手を抜いてはいけないところだと学習した。
今自分がどんな環境下にいるのか把握することは重要で
今立っている環境で進むべき道を切り開いていけるかを
検討して進んでいかなければならない。
足りないものがあれば備えなければならないし
問題があれば解決していかなければならない。

選択は何通りもあるけれど
真実は一つしか無い。
勘違いすることを前提に話をする人や
事実とまったく違うことを話をする人
ぼんやり確信に触れず具体性がない人は厄介で
私は得意ではない。
気持ちが疲れ、テンションが落ち萎えてしまう。

信じている事柄が違うとわかった時の
精神的な痛手は途方もなく
目の前が真っ暗になるというのはこのことだと
言う場面にも過去何度か遭遇した。

何でも必然と捉え誠実に対応していく事が大切だと
幼稚にも思っていた頃の自分も懐かしいが
今考えると、清濁合わせて試される海原は
自分の裁量が備わっていないと
正しい判断等出来なく、流されることになり
ほとんどが自分の器量不足からの後悔に他ならない。
断る時はきちんと断ることはとても重要だ。
自分と事実と向き合う事は大切である。

何事にも躓くには躓くだけの原因があるもので
物事がうまく進まない時には立ち止まり
それをじっくり考えてみることは重要。

物事には最初の話があり、約束事がある。
どんな事でも与えられたことを楽しみながらこなすのはひとつの才能
約束を後付の理由を掲げずきちんと守る事はプライド

自分で決めた事、言ったことにこだわる事こそプライドなのに
具体性に乏しく、環境も無く、根拠も無く
出来るかどうかまだわからない事を
さももう全て揃ってできることのように伝える人も中にはいて
人は本気になって動くから中途半端なことを
出来ると伝えてはいけないのだ。

先日マンガのような場面に遭遇した。
友人が相談があると紹介された会社に行ったら
取引先で面白い企画を持っているところがあって
これ作れるかなと言われ
なんと我が社の企画書が会社名を変えてでてきたというのだ。

商標も意匠も出し、金型作りサンプル仕上げた3年がかりの企画
提案会社のオリジナルとして企画書が配られている現実がそこにあり
企画書も弊社が作ったまま社名だけが変わっている。
友人が事実を説明し相手企業もびっくりしたようだ。
改めて我が社に打ち合わせがしたいと言っているという話だった。

腹が立つより可笑しくなった。
こんな事して恥ずかしくないのか
具体的に話が進んだらどうするつもりだったのか?
人の会社から発売するつもりは微塵もない。
なんとも無責任である。
驚き腰が抜けそうだった。

棚からぼたもちなんて無いのだ。
棚にぼたもちをせっせと上げていない人に
ぼたもちなど落ちて来るわけがない。
棚の上には何も載っていないのだから。
板で頭ぶつけるのが関の山である。

昨日は二人で涙し、またコロコロ笑い
まさに「禍福は糾える縄の如し」
人の幸・不幸は縒って作った縄目のように、
交互に訪れるため片方ばかりは続かないということだ。

まさに人生一筋縄じゃ行かないのである。











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