2012年5月19日土曜日

アイデンティティー

昨日帰宅したらBSフジ・プライムニュースに
青森県恐山菩提寺の南直哉(みなみじきさい)院代が
ゲスト出演し、「生きる」ということ、「死」について、
いろいろな角度からお話をされていました。


たまたま恐山の風車は恐山だけではなく
青森は寒いから花を飾ると凍ってしまい雪が積もるので
動いていれば雪が積もらない風車を花のかわりに飾るんだよと
教えてもらったばかりでしたので
「恐山」というワードで反応しついテレビの前に腰をおろし
グッと話を聞き入ってしまいました。
まだお若いですが、 この人は本物だと感じました。
モノの価値、言葉、現象、世界観、社会等に対し
一つ一つ真摯に考え、自分の答えを出している所にとても共鳴いたしました。


印象に残った言葉は
自分が誰であるかを決めるのは他者です。
その他者が誰であるかを決めるのは別の他者です。
ということは、自己であろうが他者であろうが、
誰であるかを決めているのは、そこにはいない「誰か」という他者であり続けます。
「自分である」ということは、際限ない他者の決定の累積によることなのであって、
「自己決定」の余地は微塵もありません。


なるほど・・・そのとうり
自分以外の誰かが、たった一人でも誰かがいることによって自分という人格に形ができる
生まれた時から皆、誰かの手を借りて時を重ね、誰かと関わることによって自分のカラーが出来るのだから。


仕事をしていると、これが社会の常識だとか
世間はこうだと自分の価値を押しつけ豪語する方に出会いますが
社会の常識とやらも人それぞれ違って当たり前。
こういう人に出会うと自分の中の社会の常識が
100:0で正しいと思ってる事がショックでテンションが激落ちします。
物事を進めるにあたり、正解か不正解か等、どちらが正しいかを議論すること自体がナンセンス
要は考え方であり、考え方であれば、人それぞれで、最初からこれが絶対に正しい!
みたいな考え方など決まっているはずも無く
どの考え方を採用するかは、その時の状況と好みと必要性だと思います。


時間の流れの中でアイデンティティー(自己同一性)の維持等出来るわけもなく
昨日の「私」と今日の「私」が「同じ」であることの自信、根拠、保証は
私自身の中にはいくら探ってもどこにもありません。
コンセプトだって時代と共に変化していくものです。
毎日色々な出来事、人との関わりがある中で 成長もあれば失望もあり、
一ヶ月後、一ヶ月前と同じアイデンティティーを求められたら
そのアイデンティティーを保つのに、その時の自分に固定しなければならなく
時間の経過で変化していく自分とのギャップに疲れてクタクタになってしまいます。
それに意味を感じない。


自分の立場だけを前に押し出す人と真剣に向き合うと、
世間の評判を気にする自我への執着と名誉欲が透けて見えてしまうのは私だけでしょうか?
犠性心も達観も諦観もできる安定した精神境涯(周りには沢山います)に憧れる
まだまだ修行が足りない私ではありますが、 たとえ自分が受け止めている常識とやらにおさまっていなくても、そんなことは無視して周りの意見に耳を傾け、考え、その時ベストと思われる結論を出す位の器量は備えておきたいと思います。
正解か不正解か等わかるはずも無く、その時はこれがベストだと思い日々を送っていけば、
それはそれで納得がいくので、憂いなく日々を重ねることはとても重要だと最近は特に強く感じます。


あの時、こうしておけばよかったとか、ああいったじゃないか等と言って
自分が下した決断を省みることなく、後付の結果でみじかな人を非難するような
思慮の浅い人とのご縁は、言葉を聞くだけでテンションが落ち、ショックなので
なるべくご遠慮したい。
我執を捨て、名誉欲を捨てきる事のできない人には、
自分が人に生かされ、支えられて生きていることを重く受け止め
人と関わることなど等、程遠いのではないだろうか?
話自体が理解できないかもしれない。


これからは色々な場面で
南先生の自分が誰であるかを決めるのは他者です。
その他者が誰であるかを決めるのは別の他者です。
という当たり前なんだけど自覚している人が少ないこの言葉が心に響くのだろう。
たった一人でも自分を認めてくれ、応援してくれる人間がいれば人は色づくのだから 。


最後にまた 南直哉院代の言葉


覚悟を決めて

努力は結果を出さなければ意味がない、と考えるのは世間の物差しである。
努力した事実は決して消えない。
しかし、それが果たして、いつどこでどのように報われるのか、
いや、報われるのかどうかさえ、およそ人間の浅知恵ではわからない。
そう考えるのが仏教である。とすれば、我々は考えを変えるべきであろう。


これからも、我々はがんばらないわけにはいかない。
だが、「がんばる」ことには、がんばらない。
がんばりの成否は問わない。
人事を尽くして、天命は待たない。
積み重ねた努力の結果、失敗も挫折も喪失もある。
悲哀も苦難もある。
喜びや楽しみや成果よりも、それらがずっと大きいかもしれない。
そう覚悟を決めて、がんばる。
たとえ報われなくても、がんばりそのものを受け入れ、敬う。
昨日のことは「しょうがない」と呟いて、それでも今日また歩くのだ。



















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